「アニメ文化やアニメファンは「市民権」を得た」という意識・認識が拡がっているようですが、必ずしも手放しで喜べるところではないと思われます。
去る10月、復刊ドットコムで今年復刻されたSF小説『残された人びと』(アレグザンダー・ケイ著)を初めて読みました。
NHK初の30分セルアニメのシリーズで、宮崎駿が初めて監督したテレビアニメシリーズである、「未来少年コナン」の原作(というより原案)として有名です。私の歴代テレビアニメランキングで6位に位置する大好きなアニメで、コミケでのシリーズ本発行前に通読しておくべきと考えて読んだのです。
様々な解説で言われているような、インダストリアを旧ソ連に、ハイハーバーをアメリカに見立てた、社会主義と資本主義の対立、といった感じは全くといっていいほどしませんでした。むしろ、機械化された階級制社会と自然との共存に支えられた自由・平等・対等な共同体社会との対立、もっと言えば絶対王政・封建社会と市民社会との対立、といった感じを受けました。それを特に強く感じさせた原因が「2等市民」という文言でした。
様々な解説で言われているような、インダストリアを旧ソ連に、ハイハーバーをアメリカに見立てた、社会主義と資本主義の対立、といった感じは全くといっていいほどしませんでした。むしろ、機械化された階級制社会と自然との共存に支えられた自由・平等・対等な共同体社会との対立、もっと言えば絶対王政・封建社会と市民社会との対立、といった感じを受けました。それを特に強く感じさせた原因が「2等市民」という文言でした。
階級制社会においては、「1等(1級)市民」「2等(2級)市民」「3等(3級)市民、または「市民」ですらない部外者」といった序列が存在し、一定の条件を満たせば等級を異動できることが多いです。つまり、何らかの努力(上級階級へのゴマスリなども含む)に報いる形で「3等、または「市民」ですらない部外者」から「2等」にのし上がれるのです。でも所詮「2等」は「1等」よりも間違いなく下等(下級)扱いなのです。それでも「2等」に進級できた者は、それを嬉々として受け入れ、「1等」に擦り寄ったり媚びへつらう態度を一層強くしたりするのです。中には、それまで自身がいたはずの「3等(または部外者)」を蔑み差別したりさえする者も出るのです。当作ではそこまで書かれていませんが、確実にそういういやらしさを持った「2等市民」が存在するであろうことを予感させます。(なお、「市民」とは、社会の構成員として権利義務が認められた存在、「市民」ですらない部外者とは、そのような当然認められるべき権利義務も持ち合わせていない(奴隷などの)存在ということです。)
「2等市民」という概念は、「2等国民」「2等国」という概念にも通じます。かつての日本が、第一次大戦から第二次大戦の時期に、つまりいわゆる欧米列強に追いつけ追い越せと植民地主義に走った時期に、欧米諸国から、他のアジア諸国とは一線を画した「2等国民」「2等国」と見られていたことがあると言われています。「一目置かれた」と言えば聞こえはいいですが、要するにアジアの一員から欧米列強へ擦り寄った(ある意味浅ましい)行為とも言えるのです。同じ(黄色人種や東洋系民族としての)アジアの仲間を見下し、欧米に媚を売ったり、あわよくば欧米を出し抜き彼らと対等な「1等」になることさえ本気で考えていたのです。欧米列強の「1等」の側から見れば、「2等」は所詮「2等」にすぎないのに。
現代日本社会では、「メインカルチャー」と「サブカルチャー」という概念があります。子供のものと思われていたアニメ・漫画・特撮などの(いわゆるオタク系)文化は現在でも「サブカルチャー」とされています。小説がメインで漫画はサブ、実写がメインでアニメはサブ、一般的撮影がメインで特撮はサブ、という観念は今でも根強いです。本来は媒体や表現形式の違いに過ぎないのに。
「メインカルチャー」を信奉する側は、「格」の違いを持たせようとしてきたのです。「高尚な内容」「社会性を帯びた大人の芸術」などは「サブカルチャー」には描けない・取り扱えないとみなしてきたのです。「子供向けや低俗で猥雑なものがふさわしい」とみなしてきたのです。
もう、「メイン」とか「サブ」とかいった階級的概念はやめませんか。媒体や表現形式による特性の違いはある程度ありますが、取り扱う内容にはもはや「メイン」「サブ」の違いはないのです。
長くなりましたが、要するに現在のアニメ界やアニメファンは、「2等市民」としての「市民権」を得ているに過ぎないのかもしれないのです。
アニメに無関心だったりアニメをバカにしたりしてきた人々(アニメ文化に関する「素人」)は、「アニメにも良いもの・面白いものはあるね」と一目置いてくれただけで、結局は「でもやっぱり、観るなら実写だよね」「実写の方が、大人の注目度は高いし、結局実写に関われるなら関わりたいと考えているんでしょ」と見下す態度は残っているかもしれないのです。
昔からアニメをバカにしてきた「大人」たちの象徴が「アニメ」の起伏発音だという歴史的側面がある以上、起伏発音する人々からの同調圧力に負けて平板発音をやめ起伏発音になびくとしたら、そのような卑下した態度をとった結果「居心地の良いぬるま湯的な空気」で満足してしまっているとしたら、実に嘆かわしいことなのです。所詮「1等市民」から見下された「2等市民」でいることに気づきもせず、あるいは気づいても「だって所詮アニメは実写よりも下だもの。どうせなら実写に関われる方が社会的認知度もステイタスも高いもの」と「2等」を受け入れてそこに留まってしまっているだけなのです。かつては「市民ですらない部外者」だったのがようやく「2等市民」に格上げされただけなのです。
昔から「玄人」「匠」「通」の発音として定着していた平板発音が肯定され、卑下したりせず堂々と、自信と誇りを持って自然に平板発音し続けられる状況であってこそ、「1等」「2等」といった階級を打破した真の平等な社会と言えるのです。人々の意識・認識が心底「アニメも実写も漫画も小説も、媒体や表現形式の違いだけで本質的には対等な、いずれも素晴らしい芸術文化」となる状態が、早く訪れてほしいものです。もちろん、個々人でみればそういう意識・認識に既になっている方々も少なくないとは思いますが、「(所詮アニメは日陰者だと)卑下してしまう方々」「(一般世間に抵抗なく受け入れてもらえるように)平板発音をやめ起伏発音に変えてしまう方々」が現実にいる以上、まだまだと言わざるを得ないのです。
(※今回の投稿内容に合わせて、「まとめ」ページにも少し補記しました。コミケ99で頒布する冊子(合本再構成完全版)も同様に、内容を捕捉しました。)